いよいよ、サッカーワールドカップが始まった。
日本代表の初戦となるドイツとの一戦が近づいている。
永瀬選手が出場したリオ五輪、東京五輪もそうであったが、東京五輪に続いてサッカー日本代表の指揮を執るのは、長崎日大第18回生の森保一監督である。
我ら長崎日大ファミリーにとっては格別なワールドカップなのである。
自分の学校のサッカー部の先輩がJリーガーとなり、日本代表となり、代表の監督となる。
サッカー部の皆さんのみならず、長崎日大関係の皆さんにとって、なんとまあ誇らしいことではないかと思うのである。
代表監督に課せられた使命は重く、当然「勝つこと」を求められる。
世の中からの賞讃も批判、非難もそこにある。
世界レベルの戦いにおける勝敗は常に紙一重であることから、吾輩はそこまで勝敗にこだわってはいないのだが、できることなら何かの場面で、森保監督の会心の笑顔が見たいものだなと願っている。
吾輩が長崎日大に教員として棲み着いたのが昭和61年、1986年である。
森保監督は当時高校3年生だった。「闘将」下田先生率いるサッカー部の主力であった。
が、しかし、そのころの国見高校さんは、1986年に選手権準優勝、翌1987年には選手権優勝を成し遂げる。まさに、小峰先生の国見高校が高校サッカーの頂点を極めていく、まさに上り調子の始まりであった。
当時の長崎日大サッカー部も県内強豪のひとつであり、果敢に国見高校さんに挑んでいったが、なかなかに及ばず、全国選手権への道は遠かった。
※ちなみに、長崎日大の選手権初出場は、2008年、亀田先生・野崎先生が率いた「カメ・ノザ」時代である。その後、2011年にも出場。
さて、長崎日大の生徒さんたちには、現在の森保監督の姿だけでなく、高校卒業から、それぞれのステージを一段一段上っていった森保選手の姿を想像し、学んでほしいのである。
「それぞれのカテゴリーにおいて最下位からスタートしました。」と森保監督は語ったことがある。
選手権に出たこともない、全く無名の高校生が、将来、日本代表の監督に就任することなど、当時の、いったい誰が予測できただろう。
プレーヤーとしても、指導者としても、置かれた状況で腐ったり嘆いたりすることなく、1日1日最善を尽くすことしかなかったはずである。
吾輩は、その努力と人間性を誇らしく思う。長崎日大の誉れである。
森保ジャパンの健闘を切に願うところである。
本日はここまで。