招き猫先生の『ことちか日記』

招き猫先生の『ことちか日記』R3 12/30

今日まで続く高校3年生の「直前ゼミ」を頼もしいなと見守りつつ、書類の整理などに勤しんでいた吾輩である。

「あとでしっかり読んで整理しよう!」とため込んでいたプリント類が次から次に出てくる。まあ、日頃の怠惰のツケだと観念して頑張っている。

とはいえ、悪い癖がここでも。
手に取ったプリントについつい引き込まれてしまい、整理整頓はそこでストップ。気がつくと時間が。

中でも、先日実施された二瓶弘行先生(桃山学院教育大学教授)の国語科学習指導案を改めて拝読し、しばし考え込んだ。

説明文の授業の方向性として述べられていたのが、

説明文を学習教材として、子ども達にどんな「言葉の力」を獲得させるのか。まずは、文章表現に即して、書かれている内容を正確に読み取る力。段落後世の把握、事実と感想の区別、筆者の主張の理解など、「読解力」の基礎となる、きわめて重要な「読みの力」を説明文の学習を通して獲得させる必要がある。
ただ今ひとつ、説明文の学習によって獲得させたい「言葉の力」がある。それは、自己表現力である。ある事実、ある主張、ある認識が、いかに表現されているかを学習材として学ぶこと、そして、その学びによって、自らが他者へ伝えたい事実、主張、認識を効果的に表現する方法を獲得する。優れた説明文は、優れた自己表現を学ぶ格好の学習材と言える。
また、真の「読解力」を育成するために、根本的な国語授業観の転換が必要である。すなわち、学習材である文章を読むことは、その文章に対する自分の意見を持つことである。と、子ども達が明確に認識しながら学習を進める授業へと転換することである。
文章を読むことは、その内容価値を見つけることで完結するのではない。教師の求める「正解」とされる解釈を探ることでもない。文章に対する自分の「意見・感想」をつくることこそ大切な学習であることを子ども達にしっかりと押さえさせたい。

ここには、「国語」という教科の可能性と責任がぎっしり詰まっていると思う。

広く人生において、直近の受験などにおいて、すべての教科でのあらゆる学びはひとつひとつ重要である。

しかしながら、「人生の下支えをする」ものとして「国語」という教科は異質な重要性を持つのではないかなと感じるのである。

中学校で進めている「言語技術教育」やクリエイトコース長である副嶋先生が推進している「発進力~CATプロジェクト」もその意識から生まれてきたものであることは言うまでもない。

「国語の先生の矜持」ここにあり!である。

 

本日はここまで。

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