昨日の続きとなる。
梅本博先生が「求めて学ぶ」という言葉を口に出したのはずいぶんと昔のことだったと思うが、改めて教室に掲げ、生徒たちもそれを意識しだしたのは、第33回生、平成11年の入学組だったと思う。
この学年は、吾輩が日大中学校の3年次から持ち上がってきた学年でもあった。高1のときは、内部進学と外部進学が1クラスずつ別々で、高2のときに融合、そして、文系理系に分かれるスタイル。まあ現在の形に近いかなと思う。
アカデミーコースという名称もまだ真新しく、それまでの「国公進(国公立大学進学)クラス」という名称の方が定着していた時代であった。
各教科の先生方に助けられつつ、1組の梅本先生と2組の吾輩、3組の福田雅子先生と力を合わせて、3年間を爆走する日々であった。
最終的には、京都大、一橋大、大阪大、九州大、広島大、熊本大、長崎大などの国立大や早稲田、慶応といった私立大などの合格者も出た。
その学年の卒業文集「貝津」に、「求めて学ぶ」についての生徒さんの文章がある。
「求めて学ぶ」のクラステーマ、はっきり言って最初は何を言いたいのかサッパリわかりませんでした。「勉強をしたくてたまらない。」なんてやつ見たことないし、いないと思います。なのに、あんなテーマを?
おそらく、入学間もない梅本クラスの面々はそのように思ったことだろう。しかし、そこから3年間、彼らはそれぞれの解釈を自分なりに導き出したのである。
「求めて学ぶ」ということは、自分のやりたいこと、興味のあること、今の苦を後々の楽しみ、喜びに変えるための大事なプロセスだと思います。
人に言われたことを言われたままにこなす受動的努力と、自分から自分の興味のあることをしようとする能動的努力、どちらがやりがいがありますか。もちろん、能動的努力でしょう。
勉強だけというわけではありません。スポーツにせよ、何にせよ、「求めて学ぶ」姿勢がないと何も達成できないし、それ相応の向上心をもたなくては、成長もしません。
立派なものである。
最後に、その年度の「貝津」に綴った梅本先生の言葉である。
「求めて学ぶ」ということは、これで終わったのではない。大学やさらなる学校に進学してから、今まで以上に要求されることだし、大切なことなのである。「求めて学ぶ」姿勢を忘れずに、さらに勉強していくならば、人として大切なことが身についてくる。それは「世界を見る目、日本を見る目」であり、「人間を知る心」だと言っておこう。
本日はここまで。