招き猫先生の『ことちか日記』

招き猫先生の『ことちか日記』R4 2/2

「春のセンバツ」が決定して、皆様から「よかったねーっ!」とお声がけいただく機会が増えた。学校関係から地域の皆様まで幅広くである。その中でも特に喜んでいただいているのが、卒業生、同窓会の皆様ではないだろうか。

昨秋の県大会、九州大会の成績は知らなくて、今回センバツ出場校の報をテレビで知ったという県外にお住まいの卒業生の皆様からも数多くの連絡をいただいている。

昨日、サッカーの日本代表「森保ジャパン」の対サウジアラビア戦を観ているところに電話が入った。

先生っ!ご無沙汰してます。知らない間に校長先生になってて(笑)ビックリしましたよぉー。という声。

忘れもしない。吾輩が新任1年目のときの高校3年生※モロシン(通称)くんであった。
※吾輩注 吾輩が長崎日大に着任したのは昭和61年。そのときの高校3年生にサッカーの森保一監督もいた。ちなみに本校の国語科主任である池内証子先生も同学年である。

このモロシンくんは当時の野球部の主力選手であり、その力量は県内トップクラスであった。教員になりたての吾輩と高校3年生のモロシンくんは先生と生徒というよりも、長崎日大の先輩後輩という感じで親しくなっていった。

卒業後も何年かに一度は再会し、久闊を叙していたのであるがここ10数年は連絡が途絶えていた。

というのも東京在住のモロシンくんと再開するのは「長崎日大が甲子園出場を果たしたときのアルプススタンドで」というのが定番となっていたからである。

大学進学後、不運な怪我などにも悩まされ紆余曲折があったモロシンくんであるが、野球を愛する気持ちと後進を育てる仕事をしたいという情熱を失うことなく前進し、現在は全国を股にかけた高校の打撃指導に飛び回っている。

モロシンくんの高校時代は、長崎日大の甲子園前夜である。松本裕介監督の下、県内の強豪校には入っていたが甲子園はまだ遠く見えた。

しかしながら、それから7年、大橋球場の時代から毎年毎年の野球部の精一杯の努力により、目に見えぬ何かが連綿と積み上げられて平成4年春の初出場につながったのである。

全国にいる長崎日大の卒業生、野球部OBの皆さんへ久しぶりのご挨拶となる甲子園出場であることも嬉しきことこの上なしである。

本日はここまで。

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